<イケさん2>




前回も「イケさん」という人について書きましたが、今回のイケさんは別人物です。前回の「イケさん」は僕の会社の先輩ですが、今回の「イケさん」は父の後輩です。

同郷というのは大きな絆の一つで、田舎が同じというだけで親近感がわくものです。僕の場合は生まれ故郷は遠く離れた鹿児島の離れ島ですが、物心ついたときは川崎市に住んでいましたので故郷と呼べるところはありません。ですので、同郷のよしみいう感覚をもつことは皆無です。

しかし、父の場合は離れ島から上京してきましたので、同郷のよしみと感じる人は幾人かいました。知り合いがいない東京で心細さを感じないはずがありません。その心細さを埋めるために、同じ故郷を持つ人同士がつながりを強めるのは当然のことです。

というよりも、同郷を頼りに上京するのが普通です。繰り返しますが、知り合いが全くいない東京ですので、同郷の人を頼りに上京するのが最も安全な方法です。これはどこの地方でも同じでしょうが、田舎育ちというのはそれだけで十分なコンプレックスになります。それを補うには同郷のよしみにすがるのが一番の方法です。

イケさんは父よりも20才くらい年下の男性でした。僕が中学生のときに20代半ばだったように記憶しています。目元がぱっちりしていて性格的には穏やかでちょっと小太りの優しい感じの人でした。イケさんは父と同じ職場で働いていました。父は郵便局の保険営業をしていたのですが、父が郵便局に勤めていたのも同郷のよしみによるものだと思います。

父は営業が性に合っていたようで、それなりに優秀な成績を収めていましたが、イケさんは営業向きではなかったようです。今でも、営業ノルマの厳しさが報道されることがありますが、昔も営業はとても厳しいことで有名でした。そのような職場環境では、同郷の先輩はとても大切な存在です。

ですから、父が独立するときにイケさんも一緒に行動をともにするのは自然のなりゆきでした。それから約20年後に僕自身も独立し、経験したからこそわかりますが、父たちの独立はあまりにお粗末なやり方でした。成功する要因が一つもないままに行動を起こしています。

おそらく事業はすぐに立ち行かなくなっているはずですが、その頃にイケさんが我が家に一人でやってきた日のことが忘れられません。

当時、僕たち家族は郊外のアパートの2階に暮らしていました。それまでは官舎に住んでいましたが、独立したことでそこから出なければいけなかったからです。アパートは2DKの間取りでお風呂はなく銭湯に通っていました。

その日、僕は妹と二人で家にいたのですが、お昼ご飯の時間になり、二人で握りずしを作ることにしました。もちろん中学生と小学生が作る握り寿司ですから「適当」というか「でたらめ」です。自分たちの知っている範囲内で「見よう見まね」で握り寿司を作っていました。

正確な記憶はありませんが、中学生と小学生の兄妹が作った握り寿司にしてはそれなりにうまく作れていたように思います。ちょうど10個くらい作ったころに、イケさんがやってきました。

イケさんは「お父さんが帰ってくるまで、待たせてもらっていい?」と家の中に入ってきました。僕はお寿司がうまく握れたので、「あのお寿司食べませんか?」と勧めました。イケさんはお寿司を見ると、少し間をおいて「俺はいいから、二人で食べな」と、お寿司を僕たちの前に戻しました。

僕たちが大人だったなら、お茶とかコーヒーを出すのでしょうが、なにしろ中学生と小学生です。僕と妹は言われるままに、お寿司を食べ始めました。2~3個食べ終わったころでしょうか、イケさんが僕たちに話しかけてきました。

「これから一緒にメシを食べに行こう。俺がおごるから」

僕たち兄妹はイケさんの営業用のライトバンによって外食に行きました。イケさんは僕たちが食べている姿を見ていて不憫に思ったのではないでしょうか。事業がうまくいっていないのですから、イケさんにしても収入に困っていたはずです。それにもかかわらず、僕たちを食事に連れていってくれたイケさんには感謝しかありません。

事業が立ちいかなくなったあと、イケさんは父から離れ地下鉄に就職しました。そして、最後は駅長まで務めています。まじめでコツコツやるのが得意そうなイケさんでしたので、公共機関で働くのは性に合っていたように思います。そうでなければ駅長にまでなれるはずがありません。

イケさんは、営業という仕事が苦手で父についていって独立するわけですが、それがうまくいかず地下鉄に転職することになりました。そして、結果的にその選択は有意義な仕事人生につながっています。人生は、なにが幸いするかわかりません。

スーパーで握り寿司を見るたびにイケさんを思い出します。

また、次回。







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