<66才の新人3>




ある日、出勤をして休憩室で着替えていますとすでに制服に着替えたTさんが入ってきました。Tさんは僕が指導係をしたときにお願いをした3項目を受け入れてから態度ががらりと変わっていました。自分の昔話はしなくなりましたし朝は一番に出勤するようになっていました。

たまたまTさんと二人きりになることがありお話をする機会があったのですが、「周りに合わせて頑張る」と話していました。Tさんの話では奥さんの体調がすぐれず治療費を稼ぐ必要があるそうです。

前の仕事が町工場の経営者ですのでご自宅はある程度広い戸建てに住んでいるそうで、僕からしますとお金持ちの部類に入る人です。それでも「清掃の仕事を始めた」ということはそれなりの覚悟があるはずです。周りから認められるようにと、出勤も朝一番に来ていました。口でいうのは簡単ですが、仕事の開始時間が早い仕事で朝一番に出勤するのは並大抵の根性ではできません。おそらく午前4時頃には起きているはずです。やはり経営者は違います。

そのTさんが足早に険しい顔をして休憩室に入って来ました。足の運びが怒りを表していました。勢いよくロッカーの扉を開けると中の荷物をまとめ始めました。

「短い時間でしたけど、ありがとうございました。ずっと辛抱して働いてきたけど、さすがに頭にきて、我慢できないのでもう辞めます!円山さんには感謝してます」

そう言うとTさんは制服を着たまま、バッグを持って帰って行ってしまいました。僕があいさつをする間もない時間での出来事でした。それにしても、あの剣幕から察しますと、余程腹に据えかねることがあったのでしょう。

午前の作業をしている途中にSさんがやって来ました。
「Tさん、仕事の途中でかえっちゃったみたいよ。みんな怒ってる」

お昼になり休憩室に戻りますと室内のあちこちでTさんの話をしていました。お昼ご飯を食べ終わる頃に女性責任者が部屋に入って来ました。Tさんが退職したことを報告しに来たのですが、責任者はTさんの働きぶりを批判する口調でした。僕からしますと、誰よりも早くに来て働いているのを知っていましたのでちょっと違和感があったのですが、Tさんの一生懸命ぶりは認められていなかったことになります。

責任者が帰ったあとSさんが僕のそばに来て話しかけてきました。Tさんが辞めた直接の理由を知っているようでした。

ざっくり言いますと、女性責任者が指示したことをTさんがやっておらず、それを注意した責任者にTさんが反論して問題が大きくなったようです。

ことの真偽はともかく、孤独の中で一生懸命働いていたTさんがかわいそうに思えました。僕はこっそりとTさんに電話をかけることにしました。
「なんか大変だったみたいですね。大丈夫ですか?」
「ああ、マルヤマさん。電話ありがとね。俺、ずっと我慢してきたんだけど頭にきちゃってさ。だって、言ってないことをやってないって言われたら我慢できないよ」
「そうですよね」
「でも、もういいんだ。限界だったから。なんかあの職場合わなかったよ。マルヤマさんだけだよ、よくしてくれたの」
「いえいえ、そんなことはないですけど…」
「まぁ、とにかくすっきりしたよ」
「そういえば、制服を持って帰ったこと、責任者が文句言ってましたけど」
「ああ、電話があった。クリーニングして宅配で送ることで話はついた。マルヤマさん、もしうちの近くに来たら寄ってくださいよ。ホントにありがとね」
「こちらこそありがとうございます。それじゃ、失礼します」

Tさんはこうして去って行ったのですが、この事件には後日談があります。これは僕の推測の域を出ないのですが、その後に出てくるいろいろな話を総合しますと、どうもSさんが裏で絡んでいるような節がありました。つまり、Tさんが責任者から叱責されるように動いていたようなのです。

しかし、もうTさんはいなくなったのですから、それ以上は詮索することもなく、また必要もなく日々仕事をしていました。ところが、人生は常にいろいろな問題が沸き起こってくるものです。

ある日突然、職場がなくなる連絡がきました。

来週に続く。







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