<66才の新人>




僕が入って2ヶ月を過ぎた頃、新しい従業員が入ってきました。休憩時間にみんなが休んでいるところに、僕のときと同じように、女性責任者が60代半ばと思しき男性を伴って入ってきました。白い頭髪は少ないながらも平均的に生えており、眼鏡をかけ身長は170センチ前半で痩せた感じの方でした。責任者に挨拶を促されますと「Eと申します。よろしくお願いします」と頭を下げました。服装はスラックスにポロシャツの上に薄い茶色のジャケットを着ていました。その日は挨拶だけで翌日から仕事をするとのことでした。

指導係は僕のときと同じSさんです。朝は出勤したらすぐに作業をはじめますので全員が顔を合わせるのはお昼ご飯の休憩時です。休憩時間になり休憩室でお弁当を食べる準備をしていますと、SさんとTさんが入ってきました。Sさんの表情が硬いのがなんとなく気がかりでした。

僕の最初の日、Sさんは休憩時間になったときに、僕が座る席を気遣うでもなく勝手に自分の席に行きました。その経験がありましたので、僕はTさんが迷ったときに声をかけるつもりでいました。

すると、やはりSさんは休憩室に入るなり、Tさんをほったらかしにして自分の席に向かいました。そのときに僕の横を通ったのですが、その際に僕に向かって両手の人差し指を交差して僕に合図を送ってきました。

人差し指の交差はつまるところバツを意味します。おそらくTさんの仕事ぶりについて僕に知らせようとしたのだと推測しました。Tさんを見ますと、別に気おくれするでもなく、靴を脱ぎ畳の上に立つと、笑顔で部屋の真ん中あたりまで行き腰をおろしました。なかなか豪傑な人のようです。新人の身でありながら、中央に座るのは普通の感覚ではできるものではありません。

Tさんはお弁当を持ってきていないようで、周りの女性陣にパンを売っているところを尋ねていました。女性の皆さんからしますと、Tさんは異性でもありますし年長者でもあります。それとなく気を使っているのがわかりました。近くのコンビニの場所を教わったTさんは部屋を出て行き、しばらくして戻ってきました。

先ほどと同じ席につき、パンと飲み物を広げながら周りの女性に話しかけています。そして、食べ終わるとなんと「ここで横になってもいいかな」と周りの人に聞いていました。もちろん女性の方たちは「どうぞどうぞ」とわざわざ枕代わりに座布団まで用意して寝ることを勧めていました。僕がそれとなくSさんのほうを見ますと、Sさんは苦虫をつぶしたような表情をしていました。

結局、Tさんは翌日も休憩時間は初日と同じように過ごしました。その日、仕事を終えて着替えていますと、Sさんが近づいてきました。そして「明日から指導係よろしく。責任者に言っといたから」と話しかけてきました。Sさんの話では「Tさんて、全然仕事をやる気持ちになっていないんだよね。俺、限界だから」そう言って帰って行きました。

少しすると、女性責任者が僕のところにやってきました。
「悪いんだけど、明日Tさんに仕事教えてくれる?」
と話しかけてきました。Sさんと責任者の話しぶりから察しますと、Tさんはたいぶ個性が強いようです。Sさんでは持て余してしまうようで僕に白羽の矢が立ったのでした。僕としましては、上司の指示ですので従うしかありませんが、面倒な役回りを引き受けることになり不安になったのが正直なところです。

休憩時間中に、周りの女性陣と交わしていた会話が聞こえてきましたが、Tさんの前職は中小企業の経営者だったようです。経営者をやっていた人が急にほかの従業員と一緒に働くのは簡単ではありません。気持ちの切り替えができていない場合に、ついついプライドが出てしまうからです。初日にSさんが僕に向かって「バツ」の形を見せたのもそういうところに原因があるのもしれません。

また来週。







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