<あぶないHさん>




先週の続きですが、僕が唯一距離を置きたいと思った人はHさんでした。Hさんは僕より10才くらい年長でガタイのいい強面の人でした。柔道の経験がありそうな胸板をしており肩幅も広く筋肉が流々としている感じです。会社の在籍も長いようで社内では肩で風を切るように歩いていました。短髪で銀縁のメガネが角ばっていたのですが、その角ばりぶりが人柄を表していました。

ある日、あるところで客待ちをしていますとそのHさんが通りがかりました。タクシーは基本的には営業区域内ならどこを走ってもいいのですが、誰しも自分の得意な地域というものを持っています。ですから、自分が「流し」をする地域とか客待ちをする場所というのは自ずと決まってきます。つまり、誰かに会いたいと思ったときはその人が得意としている地域を走っていますと会える確率は高まることになります。

おそらくHさんは僕がどこにいるか見当をつけて走っていたと思います。Hさんは僕を見かけると僕の車とは反対方向を向いた状態で車を横付けして話しかけてきました。話の内容は野球部の人間関係についてです。そして、「ちょっと話したいことがあるから、仕事が終わったら会おうよ」と誘ってきました。

仕事を終え、待ち合わせ場所の喫茶店に行きますとHさんは待っていました。僕が席に着くなり溜まっていたであろう不満愚痴を話してきました。聞いた話を整理しますと、僕の知らないところで野球部内で人間関係に軋轢があったようです。簡単に言ってしまいますと、誰が主導権を握るかで揉めたのです。

僕はただ野球がしたかっただけですので誰が主導権を握ろうが関知しないのですが、僕なりの印象を言いますと、Hさんは人望がありませんでした。今のキャプテンのほうがずっと人望があったのは間違いないところです。

おそらくHさんは自分がないがしろにされたことに立腹したようで、その憤懣を僕に話すことで解消しようとしたようです。もっと単純に言いますと、僕を味方にしようと企んだようでした。今のキャプテンはほかの部員から信頼されていますので新人でしかも一番若い僕を仲間にしようと考えたのです。

僕は計算高い人が好きではありませんので、Hさんの「自分の仲間になれ」誘いをのらりくらりとはぐらかしました。

世の中にはずる賢いヤツというのはどこにでもいるものですが、Hさんが考えたずる賢さは「俺の力で無線車に乗れるようにしてやる」というものでした。

ここで少し説明をしますと、タクシーには無線車とそうでない車があります。無線車のほうが有利なのですが、その理由は無線で呼ぶお客さんは遠距離が多いからです。ですのでベテランになればなるほど無線車に乗りたがります。しかも「流し」などする必要もなく、どこかに停車して無線を拾うだけで売上げができるのですから楽なのです。

僕は最後まで無線車に乗りませんでしたが、「無線を拾う」のにもコツがあるそうで拾いやすい場所や時間を見つける努力が必要なようでした。野球部のある先輩は、お客さんを船橋で降ろして高速で戻っているときに「無線を拾ったりもしている」と話していました。僕が驚いて「えっ、お客さん待っててくれるんですか?」と尋ねますと、なんと「10分で戻るんだよ」と笑い飛ばしていました。

まだ通信技術が発達していない時代だからこそできた技です。

Hさんのお話はまた来週。







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