<ムラヌシ先生>




61年間生きてきて、僕が出会った人で最も記憶に残っている人は中学時代の担任だったムラヌシ先生です。お腹が出た50才過ぎのブルドックのような顔つきの先生でした。僕が先生の一番好きなところは「分け隔てなく」という表現がピッタリの生徒たちへの接し方です。僕は中学生でしたのでまだまだ子供でしたが、誰を贔屓するのでもなくクラスの全員に公平に接しているように感じていました。
大人になり自分が子供を育てるようになり、そしてたくさんのいろいろな人と接するようになって実感したことですが、全員に公平に接するのって一見簡単そうですがとても難しいのですね。ですので大人になればなるほどムラヌシ先生の素晴らしさを思い出していました。
これから書きます文章は、実は僕のもう一つのコラム「じゃ、また」に書いたものの一部分を切り抜いたものです。第一回目ですので、一番記憶に残っている人を紹介したいと思い、再掲することにしました。10年以上前のコラムですので覚えている人もほとんどいないと思います。どうぞお許しください。

それではどうぞ…。

僕の年代は高校進学率はすでに95%を越えていました。ほとんどの生徒が自分の成績に見合った高校に進学していました。進学をせずに就職したのは一学年200名くらいの中でほんの数人にすぎませんでした。その数人の中の二人が僕のクラスにいました。アベ君とナカムラ君でした。
卒業式を数日後に控えたある日、担任のムラヌシ先生は朝のホームルームの時間にアベ君とナカムラ君を皆の前に出させました。突然のことなので二人とも緊張しているのがわかります。先生はというと、普段のブルドックのような顔が柔和な表情になっています。デップリとしたお腹を突き出し眼鏡の縁に手をやりながらゆっくりと話し出しました。

「あと少しでみんなともお別れだな。先生はみんなと出会えて幸せだった。ありがとう。みんなはこれから高校に進むんだけど、高校でもしっかり勉強して頑張ってください」

言い終わると先生はアベ君とナカムラ君に眼差しを向けました。そして続けました。
「みんなに報告することがあります。実は、アベ君とナカムラ君は家の都合で進学せずに就職します。学校と違って会社、社会というところはとても厳しいところです。先生は二人に『頑張れー』とエールを送りたいと思います」
話し終えると先生は包み込むように声をかけました。
「みんなにこれからの抱負でも話すかい?」
戸惑ったようすの二人は顔を横に振りました。先生は小さくゆっくりとうなづくと二人に近づきアベ君の右手を握りました。強く握っていました。そして同じようにナカムラ君の手も握りました。強く握りました。そして先生は二人を同時に抱きしめたのです。
たぶん、抱きしめていた時間はほんの数秒でしょう。しかし僕にはとても長い時間に感じました。僕には先生の声が聞こえました。

「どんな辛いことがあっても頑張れ…」







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